2017年04月02日
亀ヶ崎城とつなぐ橋
酒田市上本町と酒田市亀ヶ崎をつなぐ橋。
その名も「新井田橋(にいだはし)」という。
一説には室町時代からあったと言われる橋は、
明治23年にはめがね橋が竣工され貴重な橋として長年地域住民に愛され続けた。
しかしそれも老朽化が進み昭和30年、
現在の新井田橋に架け替えられている。
なお、現在あるのは昭和30年に竣工になった橋がそのままあるのではなく、
その後耐震強度に耐えられるように強化工事が行われたものである。
亀ヶ崎城があった当時はこの橋が酒田町と通じる唯一の道であり、
重要な橋として扱われたのであろう。
亀ヶ崎城はその後幾多の変遷があって、
現在は酒田東高校の敷地となっている。
通常どこの地域でも城跡は大きく残されているが、
なぜか酒田では城跡などお構いなしで、天下の商人本間様の屋敷が大きく残されている。
新井田橋から見た下流方面には大きく右に蛇行したところに山居倉庫が位置している。
そして、上流部には新しい橋「未来橋」(歩道専用)が架けられている。
上流部遥か向こうには鳥海山が見えるが、
残念ながら雲の中に隠れていた。
春の日差しを浴びながら心地よい散策の途中で撮った写真である。
Posted by 黒メダカ at 08:09│Comments(2)
│酒田関連
この記事へのコメント
亀ヶ崎城は閉城になった当初から、
城跡を大切に保とうという意思が感じられないように思います。
代々、東高に通った子たちは、城跡だと教わってないですよね・・・
酒田(役人)は昔から
新し物好き酒田気質?(^_^;)
城跡を大切に保とうという意思が感じられないように思います。
代々、東高に通った子たちは、城跡だと教わってないですよね・・・
酒田(役人)は昔から
新し物好き酒田気質?(^_^;)
Posted by 酒田人 at 2017年04月02日 10:42
★ 酒田人 様
コメントありがとうございます。
そもそも城を作ったのが鶴岡に本拠のある大宝寺氏で酒田にいた東禅寺氏との関係が怪しくなったり、上杉藩と最上藩の間で奪い合いが起きたりで、酒田町民に愛着が生じなかったのが要因だったのかな。
その後の閉城後の変遷を見ても、あまり後世に残そうとは考えられていなかった様子です。
山形の霞城公園や鶴岡の鶴ヶ岡城などのように石垣を組んでの城ではなく、3mほどの土塁を積んだだけの平城だったのが、城跡保存の重要性を考えなかった要因かもしれません。
東高での歴史の扱いはわかりませんが、第三中学校の授業では、かなり地域的な学習は行われているようです。
コメントありがとうございます。
そもそも城を作ったのが鶴岡に本拠のある大宝寺氏で酒田にいた東禅寺氏との関係が怪しくなったり、上杉藩と最上藩の間で奪い合いが起きたりで、酒田町民に愛着が生じなかったのが要因だったのかな。
その後の閉城後の変遷を見ても、あまり後世に残そうとは考えられていなかった様子です。
山形の霞城公園や鶴岡の鶴ヶ岡城などのように石垣を組んでの城ではなく、3mほどの土塁を積んだだけの平城だったのが、城跡保存の重要性を考えなかった要因かもしれません。
東高での歴史の扱いはわかりませんが、第三中学校の授業では、かなり地域的な学習は行われているようです。
Posted by 黒メダカ at 2017年04月02日 21:47